にじげん大塚
完璧なカタログと、愛おしいピンボケ
便利さの裏で消えていく「我が子の泣き顔」
最近、世間では人間関係すら効率やコスパで選び、
役に立たない関係を「損切り」するような風潮があるらしい。
そんな冷たい効率主義の話を耳にしてモヤモヤしていたのだが、
先日、その効率化の波がもたらす、また別の「実害」についての記事を読んだ。
スマホで手軽に写真が撮れるようになった現代、子どもの写真を撮る親たちの間で、ある現象が起きているという。
我が子の写真を撮る。子どもが泣いている。 「あ、これは失敗作だな」 そう思って、
スマホの画面をタップし、ゴミ箱へポイと捨てる。
ベストショットだけを綺麗に整理しようと、そんなふうに「無駄」や「失敗」をその都度間引き続けた結果、
ある日ふと気づく。
子どものアルバムを開いても、そこには「カメラに向かって笑っている写真」しか残っていないことに。
泣き顔や、困った顔の思い出が、アルバムを綺麗にするための選別によって、
すべて消去されてしまっていた事実に、愕然とするそうだ。

記憶の引き出しを開ける「不器用な一幕」
でも、そうやって整理していかないと、
今のスマホ写真は膨大すぎて二度と見返せなくなってしまう。それもよく分かる。
けれど、胸の奥が、ツンと痛むような感覚がした。
本当に愛おしい思い出は、むしろその「捨てられた無駄」の中にこそ詰まっているはずなのに。
思い返せば、私たちが大人になってからふと思い出すのは、
綺麗に澄ました笑顔の写真よりも、むしろ泣き顔の背景にあるドラマの方ではないだろうか。
「あの時は、お気に入りのおもちゃを壊しちゃって、親にこっぴどく叱られたっけ」とか。
「大泣きしたあと、お母さんに抱きしめられて、たくさん慰めてもらったな」とか。
記憶の引き出しをそっと開けてくれるのは、いつだって完璧な瞬間ではなく、そんな不器用な一幕だったりする。

主役の笑顔の後ろに隠された、記憶の引き金
そう考えてみると、私たちが「失敗作」として切り捨てようとしているものの中にこそ、
愛おしさが眠っているのかもしれない。
現像してみるまで仕上がりが分からなかった昔の写真は、まさに無駄だらけだった。
ピンボケしていたり、変な顔で目をつぶっていたり、背景がぐちゃぐちゃに散らかっていたりした。
けれど、今になって愛おしく見返してしまうのは、じつはそういう写真のほうではないだろうか?
それに、写真の価値は被写体の笑顔だけではない。
本来は主役であるはずの人物の、その「背景」にこそ、記憶の引き金が隠されていることがよくある。
昔のアルバムを開いたとき、ふと写真の隅っこに目を奪われる。
「ああ、この本棚のここに、お気に入りのぬいぐるみを飾っていたな。あれ、どこへ行っちゃったんだろう」
「この時は、こんな変な服を着ていたっけ。確かデパートでお母さんに買ってもらったんだよな」
笑顔の後ろに映り込んだ散らかった部屋、今見れば少し恥ずかしい流行遅れの洋服。
そんな「本筋とは関係のない無駄」を見て、
当時の家の匂いや、お母さんの手の温もり、当時の空気感がブワッと鮮明に蘇ってくるのだ。

完璧なカタログよりも、愛おしいピンボケを
もしもあの頃の自分が、綺麗に整理するために「失敗作」をすべて削除していたら、
今の私の記憶はどれほど薄っぺらいものになっていただろう。
効率よく、綺麗で、無駄のないものだけを集めた世界は、一見すると完璧だ。
でもそれは、どこか他人の作ったカタログを眺めているような、冷たい息苦しさがある。
不器用な泣き顔も、散らかった部屋も、すべてがその瞬間を生きていた証拠だ。
役に立たないもの、美しくないものの中にこそ、本当は一番捨ててはいけないものが眠っている。
今夜はスマートフォンの写真フォルダを開いて、
少しピンボケした写真や、何気ない日常の風景を、消さずにそのまま眺めてみようと思う。
