にじげん大塚

「お前にカルピス作らせるの嫌」で笑えなくなる日

「お前にカルピス作らせるの嫌」で笑えなくなる日

テレビの衰退と、消えゆく「共通記憶」

先日、NHK放送文化研究所が発表した最新の「国民生活時間調査」の結果を見て、なるほどなと考えさせられることがありました。
スマホの普及や見逃し配信の定着で、若い世代のテレビ離れが進んでいることは今さら驚きません。
20代の約7割、30代の約6割が日常的にテレビをほぼ見ない時代です。

ただ、今回の調査で個人的に衝撃だったのは、これまで強固にテレビを支持し続けてきた60歳以上の高齢層までもが、一斉にテレビ(リアルタイム放送)を見る時間を減らし始めたという事実でした。
全世代で同時に視聴割合が落ち込んだのは、現在の調査方法になってから初めてのことだそうです。

これは単に「テレビというメディアが衰退している」という話にとどまらない気がしています。
日本社会がこれまで当たり前に共有していた「多くの人が持つ共通記憶」が、いよいよ根底からなくなっていくことを意味しているのではないか、と思うのです。

「昨日のあの番組見た?」から始まる会話が、少しずつ消えていく。それはどこか、寂しい変化のような気がします。

パロディが成立しない?「元ネタ」なき時代の笑い

共通記憶がなくなっていく状況を考えたとき、私が真っ先に「あ、これが変わっていっちゃうな」と思ったのが、
「パロディ」の文化です。

そもそもパロディって、誰もが知っている「元ネタ」があって初めて成立するものだと思うんです。
元ネタというどっしりした土台があるからこそ、それをちょっと崩したり、皮肉ったりしたときに「元ネタはあれなのに、そう来るか!」という笑いが生まれます。

もちろん、現代でもSNSや動画サイトでトレンドがバズることはあります。
最近で言えば、サカナクションの「夜の踊り子」のミーム動画などがありましたが、多くは「みんなで同じフォーマットをなぞって楽しむ」という単なる真似(コピー)であり、元ネタをズラして笑いを生む本来の「パロディ」とは違う気がするのです。

なぜなら、本当のパロディを成立させるための「誰もが知っている土台」が今の時代にはないからです。
ネットのアルゴリズムによって、ある界隈で親しまれているネタでも、
そこから一歩外に出れば「それ何? 何かのパロディ?……」となってしまいます。

みんなが知っている「元ネタ」を共有している人が少なくなれば、パロディをしたとしても大元を見ていないわけだから、「何それ?」で終わってしまう。結果として、笑いの広がりもどうしても狭くなっていく気がするのです。

「そんなの関係ねぇ」という流行語が生まれない寂しさ

同じように、かつては誰もが日常で口にする「流行語」や「定番のノリ」がテレビから次々と生まれていました。

  • 小島よしおの「そんなの関係ねぇ!」
  • オリエンタルラジオの「武勇伝、武勇伝」の掛け合い
  • 波田陽区の「残念!!〇〇斬り!」

これらは、熱心なお笑いファンでなくても、その場の空気感やニュアンスを含めて誰もが共有していた「共通言語」でした。だからこそ、日常の会話でちょっと真似するだけで、説明不要でその場が一瞬で和んだのだと思います。

毎年、年末になると「新語・流行語大賞」が発表されますが、以前はどれも一度は耳にしたことのある言葉ばかりが選出されていて、誰もが納得感を持っていた気がします。しかし近年は、トップテンを見ても「これ、どこで流行ってたの……?」と疑問に思うものが半分くらい混ざっていることが少なくありません。

これは言葉だけでなく、「音楽」の世界でもまったく同じ現象が起きつつあります。

ひと昔前なら、お茶の間で誰もがイントロを聞いただけで歌える「国民的ヒット曲」が毎年必ず生まれていました。しかし今や、ストリーミングで何億回再生されていようが、関心のない人には1秒すら届かない時代です。

このままいけば、2030年代や2040年代になったとき、「2020年代のヒット曲特集!」という懐かしの番組をやったとしても(そもそもその時代にテレビで音楽番組を見ている人がどれだけいるのかという問題は一旦横に置くとして)、画面の前で「これ、本当に流行ってた……?」と首をかしげる人ばかりになってしまうのではないでしょうか。

個人の見ている世界が細分化された結果、共有できる「共通言語」そのものが少なくなっているだけでなく、
その言葉やカルチャーの背景にある「日本中がみんなで同じ熱量を共有していた空気」そのものが、少しずつ失われているような気がしてなりません。

そして、この「背景や空気を共有する」という感覚は、私たちが日常で楽しんでいる「笑いの前提」そのものにも大きく関わっています。

ふかわりょうの「カルピス」のネタが教えてくれること

日本はよく「高コンテクスト(ハイ・コンテクスト)言語」の国だと言われます。
言葉そのものの意味だけでなく、文脈、背景、状況、人間関係、そして表情や仕草といった「言語外の情報」から
意図を読み取るコミュニケーションスタイルです。

これが成立していたのは、私たちが大部分の「文化や体験」を共有していたからではないでしょうか。

ここで、かつて芸人のふかわりょうさんがやっていた、ある有名な一言ネタを思い出します。

「だからお前にカルピス作らせるの嫌なんだよ」

この短すぎる一言でクスッと笑ってしまう背景には、実は膨大な「前提(コンテクスト)」が隠されています。

  • カルピスはペットボトルではなく、瓶に入った「原液」であり、水で割って作る飲料であること。
  • 誰が作っても同じ味になるわけではなく、作り手のさじ加減に「濃さ」が完全に委ねられていること。
  • 放課後などに、子供同士で友達の家に遊びに行っているというシチュエーション。
  • 他人の家で出された飲み物に対して、文句を言うのは本来タブーであるという前提。
  • 美味しく飲める「黄金比」を無視して、グラスの底が透けて見えるほど極端に薄める家が存在すること。
  • 家(親の経済観念)によって、カルピスの濃さに明確な「格差」があったという子供時代の共通記憶。
  • 「カルピスが薄い家=ちょっとケチ、または貧乏」という、子供ながらに察してしまう残酷なあるある。
  • 「だから」という言葉に込められた、「こいつはいつも薄く作る」という前科と、それを遠慮なくツッコめる二人の関係性。

これらすべての背景を、話し手と聞き手が「言わずもがな」で共有しているからこそ、この一言だけで爆笑が生まれるんですよね。実際、子供の頃に友達の家で出てきたカルピスが透き通るほど薄くて、切ない気持ちになった思い出がある人も多いのではないでしょうか。

もし今の「カルピスはペットボトル(完成品)で買うもの」しか知らない世代が増えれば、このネタを聞いても、
これらの前提が無いわけですから、「……で、何が嫌なの?」となってしまいます。

会話の「説明コスト」が跳ね上がる時代へ

こうした共通記憶から生まれた『共通言語』の喪失は、日常のコミュニケーションにもじわじわと影響を与えている気がします。一言で言えば、「人と話すときの会話のコスト(手間)」がめちゃくちゃ高くなっているということです。

各自の興味が「狭く深く」研ぎ澄まされたコンテンツに分散している現代では、オンラインやSNSのコミュニティで同じ趣味の人を探すのは簡単になりました。
しかし一方で、学校や職場といった「たまたま集まったリアルの場」で会話を始める時の難易度は跳ね上がっています。

共通の前提がないと、会話はこうなりがちです。

「〇〇って知ってる?」

「あ、知らない」

「……そっか(会話終了)」

あるいは、そこから会話を続けるために「〇〇っていうのはね……」と毎回丁寧な解説講座から始めなければならず、一緒に爆笑する前のステップがあまりにも長くなってしまう。説明なしで「あの一言」だけで笑い合えた時代と比べると、雑談をひとつ成り立たせるだけでもかなりのエネルギーが必要です。

そのうち、パロディ動画や過去のネタを見て「AIに『これのどこが面白いのか解説して』と訊ねる人」が当たり前のように増えるのかもしれません。

ただ、笑い話のどこが面白いのかを理屈で解説されることほど、最高に「寒い時間」はありませんよね。
本来なら説明不要で共有して、一瞬で弾けるはずの笑いを、
機械に分析させて「あー、ここが面白いんだ。ハハハ」と冷めた笑いを浮かべる……。
想像するだけでゾッとするような、味気なくて少し怖い光景です。

共有基盤を失っていく、これからの世界

私たちは今、こうした「言わなくても伝わる前提」を、少しずつ手放している最中なのかもしれません。

ネット主流のコンテンツは個人の好みに最適化され、世界を効率的で自由にしてくれましたが、
同時に社会の「共通言語」を細分化していきました。

その結果、カルピスのネタのように、多くの前提を当たり前のように共有しているからこそ生まれる
「クスッとくる共感」を楽しめる土壌が減っていくのだとしたら……。
それは少し、いえ、かなり寂しいことのように思えます。

効率的で自由な時代。だからこそ、あの「学校や職場でみんなで同じものを見て、同じ前提で笑い合っていた時代」の濃密なコンテクストが、少し恋しくなるのです。